大金退任直前の浅川林業試験場での出来事

この日、天皇と皇后は浅川の林業試験場に植物採集に出かける。
この翌日、大金侍従長は退任

 ちょうど皇后陛下が進まれるお顔先にも、長楕円形のやわらかい若葉をつけた、枝ぶりの優しい気が枝を差しのべていた。皇后陛下はその一枝を折ろうとなさったが、片手では折れなかった。すぐお後から登っていた大金侍従長は、その御様子を見て、手を差しのべてその小さい一枝を折った。生木の小枝は殆ど音もなく折れたが、その途端に天皇陛下のお声がした。
「ああ、むやみに枝を折ってはいけないね」
 その声は心配そうな調子であった。
 天皇陛下は一間程先を歩いておられたのだが、何かの気配で振り返られたのであろう、しかしその時は既に大金侍従長の手には小枝が折られて、いま皇后陛下に差上げようとしているときであった。
「はい」
 侍従長は、ただそう答えただけだったが、 ー そうだった、陛下はいつもそうなさっているのに ー 心の中では、陛下のそうした御心持を、長い勤めの間中片時だって忘れたことがなかったのに遂いうっかりしたことをしきりに悔いている様子であった。
 大金侍従長は側近の勤め十七年で、しかも翌五日に三谷侍従長と更迭することになっていて、この日は最後の勤めであった。つい昼前、陛下にお供して多摩陵に参拝した時も、今までの長い勤めに大過なかったことの御礼を心に念じながら参拝してきたのであった。
「それなのに」 ー 侍従長の悔は大きかった。侍従長をやめてからのことであるが大金さんはこの時のことを語っていた。
「私は長い勤めでおしかりをうけたのはこれが最初で最後でした。しくじりがなかったと云うのではありません。陛下は御自身に関することで側近に誤りがあっても、今まで一度もおしかりになったことはありません。しかし、こうして枝一本でも公のものをいためるようなことをしたものだからついおとがめがあったのでしょう」

田中徳『天皇と生物学研究』(鶴見俊輔中川六平編『天皇百話』所収(395ー397p))

4480022899天皇百話〈下の巻〉
鶴見 俊輔 中川 六平
筑摩書房 1989-04

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