昭和天皇

退位の書簡を認める発言

昭和天皇77歳のときの会見より 記者:今年の夏、米国のマッカーサー記念館で、昭和23年に陛下が田島長官を通じ、「退位せず」というご決意を表明された書簡が公表されました。 これはマッカーサー元帥が、陛下に退位されないようにお勧めしたことへの返事と…

もしも一般人になったら

『ニューズウィーク』バーナード・クリッシャー東京支局長による訪米前のインタビュー 記者:陛下は一日でも一般の人になって、誰にもまったく気付かれず、皇居を抜け出し、気ままに振るまってみたいとお考えになったことはありませんか。仮に実現したら何を…

皇后還暦後の発言

昭和天皇62歳。那須御用邸での会見より 記者:両陛下そろって還暦を迎えられたご感想は。 天皇:私的なことだから感想はないが…。六十年生きてきて、何ひとつ立派なことができなかったことを悔いている。これから国民のために、できるかぎりのことをやってい…

天皇の三谷隆信に対する辞意

この日、皇太子の15歳の誕生日。 そして、東条英機、土肥原賢二、広田弘毅、板垣征四郎、木村兵太郎、松井石根、武藤章の7人のA級戦犯が処刑される。 天皇一家は予定されていたすべての行事を取りやめ、服喪の一日を過ごす。 これは村井長正が田島道治から…

キーナンとの御陪食

キーナンが26日に帰国するのを前に天皇と会食 入江日記には「キーナンとの御陪食がなかなかおかかりになり」とある。『入江相政日記 第4巻』(119p) 原文は旧かな入江相政日記〈第4巻〉―昭和23年1月~昭和25年12月入江 相政 朝日新聞社 朝日新聞社 1994-10by …

村井長正の見たこの日の天皇の様子

村井長正の回想 「陛下は眼を泣き腫らして、真っ赤な顔をしておられた。生涯忘れられないお顔である。私は恐れおののき、視線を落とし、二度とそのような陛下を見まいとして要件だけ述べ、顔を伏せたままドアを閉めた」 橋本明「封印された天皇の「お詫び」…

三谷隆信の推察する天皇の心境

私が侍従長を拝命した頃、世間には天皇退位論が盛んであった。戦争は天皇の名によって行われたのであるから、天皇は責任をとって退位すべしという形式論もあり、国民道徳の低下を救うためには、天皇の退位が最上の道であるとする政治論もあった。このような…

 退位せずの書簡

この日、東京裁判の判決 東条英機以下7人が絞首刑、25被告全員が有罪 天皇のマッカーサー宛の書簡 連合国最高司令官 陸軍元帥 ダグラス・マッカーサー閣下 謹啓 天皇陛下の御下命により、本官は閣下に対し、天皇陛下から次のようなメッセージをお伝えする…

芦田首相、辞職の報告

三時に宮中にお茶の会に召されている。今日は九人の閣僚がいたが、案外朗らかな空気であった。 四時に終了。私は引見室の隣で陛下に内謁見を願った。そして「辞職の決意を致しました。御許を願います」と申上げた。陛下は落着いていらせられた。議会は開くの…

芸術院の会食

谷崎潤一郎、柳田国男、佐藤春夫、野上弥生子は欠席 カメラマンが写真を写したりして正午過から御陪食。一時に行って見ると御茶の席へお移りになった所、話しはいい工合に進んでいる。お上の左の方へ順に森戸文相、志賀直哉、長谷川如是閑、正宗白鳥、辰野隆…

「腹が減った」とおっしゃった天皇

雨はなお降っているが四時半から小雨の中をゴム長に御傘で御出ましになる。千条園から嚶鳴亭、千条園をお抜けになる頃雨が音を立てて降って来たが又間もなく小降りになった。方々で植物をお採らせになる。斎藤君が掘る。霧の中を七時に還御。それから御入浴…

三谷隆信回顧録に書かれた天皇の食事についての記述

記述からは日付は特定できないがこの前後だと思われる。(12日以降は天皇は那須に行っている) 拝命後間もなく田島長官と共に吹上の御文庫に召されて夕餐の御陪食に与った。御文庫とは戦争中吹上御苑内に急造した防空用の建物である。地下は防空壕として設計…

退位についての発言(マッカーサーへの報告書から)

マッカーサーの副官バンカー大佐から総司令官に提出されたメモに添付されたグリーン予備大佐(参謀第二部諜報担当官)の報告書より 六月八日、天皇は宮内府某高官に対し、退位と関連して最近の人事交代が起こった、という噂を話題にした。その時この高官が、…

 宮中人事の交代

宮内庁長官 松平慶民 → 田島道治 侍従長 大金益次郎 → 三谷隆信実際はGHQ民政局の以降による更迭人事侍従次長の加藤進が反対し、芦田均と田島道治が怒るが陛下の意向と知り恐縮。 (徳川義寛『侍従長の遺言』(134p))侍従長の遺言―昭和天皇との50年徳川 義寛…

大金退任直前の浅川林業試験場での出来事

この日、天皇と皇后は浅川の林業試験場に植物採集に出かける。 この翌日、大金侍従長は退任 ちょうど皇后陛下が進まれるお顔先にも、長楕円形のやわらかい若葉をつけた、枝ぶりの優しい気が枝を差しのべていた。皇后陛下はその一枝を折ろうとなさったが、片…

芦田均、皇室への要望

午後自動車で葉山御用邸に伺候。三時から約一時間拝謁した。 私は (一)宮内府長官に田島を御嘉納下され有難く御礼申し上げ、(二)侍従長については現在者を据置くことのご意嚮を拝したが、矢張りこの際とりかえることが内外に好印象を与えると存じますか…

昭和天皇、47歳の誕生日

天長節祭の御代拝は永積さん、十時十分から我々の拝賀、続いて皇族、旧皇族、大勲位以下、庁舎の宮内官という風にいつものように御行事は進む。この頃少しお疲れのように拝したのでうかがって見たが、そんな事はないとの仰せ。その後旧奉仕者にお会い遊ばさ…

バリー・ファリスとの会見

バリー・ファリスは米国ハースト系新聞のINS通信編集幹部。 今日のフアリーバリスはインタナショナルニュースサーヴィスの主筆でマッカーサーの選挙の有力なるものの由、随分つきつめた事をうかがった由。例えばルーズベルト大統領の親電を事前にお聞きにな…

芦田内閣成立の日

私は特に拝謁の上御言葉を賜ることになっていた。設けられた椅子に腰を下ろすと先ず自分から進んで言上した。 芦田は国会の指名を受けて大任を拝することになりました。時局は誠に重大であり、前途は困難と信じますが、一切の毀誉褒貶を度外視して全力を尽く…

アメリカ紙の記者に見た地方巡幸

『シカゴ・サン』紙の特派員マーク・ゲインの『ニッポン日記』より ちょうどそのとき、私は天皇を(われわれは彼のことを「チャーリイ」と呼んでいた)よく見ることができた。彼は小柄で背は五フィート二インチばかりもあろうか、この日は灰色の縞の下手くそ…

木下道雄、沼津御用邸にて

沼津御用邸(西)にて昼食後一時間計り拝謁。 一、呉竹寮組織変更の件御異議なし。 二、夏冬の大宮様御用邸としては、沼津と軽井沢とあれば足る様に思われたり。冬の寒さが御困難にて、夏の暑さは苦に遊ばされず。台湾に住みたいと思ったとの御話ありし位、…

公職追放令についての昭和天皇の反応

この発言の正確な日付はわからないが、この日GHQが軍関係者の公職追放を指令している。 公職追放令がGHQから指示されてきた。直ちに訳文をお手元に差しだすと、ご覧になっていたが、一読後に私に仰せられた。 「ずいぶんと厳しい残酷なものだね、これを、こ…

第一回皇居勤労奉仕

この日、宮城県栗原郡の青年団勇士による初めての皇居での勤労奉仕が行われる。 団長は鈴木徳一、副団長は長谷川峻(のちに衆議院議員となり労働大臣や運輸大臣、法務大臣を歴任)以下は筧素彦「第一回皇居勤労奉仕」(筧素彦『今上陛下と母宮貞明皇后』)に…

初めて天皇と会見した米記者の印象

『ニューヨーク・タイムズ』太平洋方面支局長フランク・クルックホーン記者による天皇の印象 「私は戦後天皇に会う最初の米人であり、外国人だった。天皇はその縁なし眼鏡を通してじっと私の顔を直視した。彼の顔には、戦争のヤツレが見えた。顔色はいいが、…

明仁皇太子への手紙

天皇が穂積重遠東宮大夫に奥日光にいた皇太子のもと届けるようにと依頼した手紙 手紙をありがたう しつかりとした精神をもつて 元気で居ることを聞いて 喜んで居ます。 国家は多事であるが 私は丈夫で居るから安心してください 今度のやうな決心をしなければ…

 退位の意向を木戸にもらす

天皇「戦争責任者を連合国に引き渡すは真に苦痛にして忍び難きことなるが、自分が一人引き受けて退位でもして納める訳にはいかないだろうか」 木戸「連合国の現在の心構より察するに、中々その位のことにては承知致さざるべく、かつまた外国の考え方は我が国…